「土下座しろ」と30分怒鳴られても、売場担当者が上司を呼ぶ基準を知らなければ、会社の方針は壁の紙で終わります。反対に、商品の欠陥を訴える顧客を、声が大きいという理由だけでカスタマーハラスメントと決めれば、正当な申出を封じます。2026年10月1日に始まる事業主の措置義務は、顧客を分類するためではなく、要求内容と手段を分け、働く人を守りながら必要な苦情へ応える仕組みを作るものです。
2025年6月11日に公布された改正法を受け、厚生労働省は2026年2月26日に指針を告示しました。電話、メール、SNS、訪問など接点を問わず、会社が方針、相談体制、事実確認、被害者への配慮、再発防止、プライバシー保護等を整えます。現場任せの「毅然と対応」だけでは、どこで交代し、誰が判断し、何を記録するかが欠けます。
カスハラ対策の中心は顧客を追い返す言葉ではなく、現場の一人が抱え込まない引継ぎ条件と、会社が判断を引き取る経路です。
本記事は2026年9月5日に厚生労働省の法律・指針・企業向け情報を確認しました。個別事案の違法性や警察対応は、事実関係と緊急性に応じて弁護士、警察等へ相談してください。
まず三要件を一枚の判断票へ移す
要求内容と手段を分け、評価語ではなく事実を残します。
厚生労働省の指針は、職場におけるカスタマーハラスメントを三つの要素で捉えます。顧客、取引先、施設利用者その他の利害関係者による言動であること。その言動が、要求内容の妥当性に照らして手段・態様が社会通念上許容される範囲を超えること。その結果、労働者の就業環境が害されることです。
この三つを「迷惑だったか」という一問へ縮めません。購入品の不具合を具体的に伝え、交換を求める行為は、会社にとって耳の痛い内容でも正当な苦情になり得ます。同じ不具合を理由に、人格を否定し、長時間拘束し、私生活の情報をSNSへ晒すと告げるなら、要求の手段が別の問題になります。
判断票には、要求内容、事実確認できた契約・商品、発言・行為、開始時刻、継続時間、場所・媒体、従業員への影響、第三者、対応済み事項を分けて書きます。「悪質客」「クレーマー」といった評価語では、次の担当者が同じ事実を検証できません。
要求内容に理由があるかと、要求の手段が許容範囲かは別々に判定します。正当な苦情が含まれていても、暴力や人格否定を受忍する理由にはなりません。
現場には定義より三段階の退避条件を渡す
通常対応、責任者交代、終了・外部連携を分けます。
第一段階は担当者が通常手順で事実と要望を聞く時間です。復唱し、会社ができること、できないこと、回答期限を明確にします。第二段階は責任者へ交代する条件です。同じ説明を繰り返しても終わらない、個人への侮辱、私生活への質問、撮影・投稿の威迫、他の顧客の利用を妨げる場合などを業態別に例示します。
第三段階は対応終了と外部連携です。暴力、物を投げる、危険物、退去拒否、つきまとい、明確な脅迫、自傷他害の危険があるときは、安全を優先し、警備・警察へ連絡します。犯罪成立を現場担当者が確定してから連絡する設計にはしません。緊急性、退避場所、非常ボタン、110番通報者を先に決めます。
時間だけで一律に切ると、複雑な正当苦情を途中で遮る場合があります。時間、言動、反復、業務妨害、安全の組合せで責任者へ上げます。電話なら保留・終話、店舗なら距離確保と別室の扱い、訪問先なら退出、オンラインならアカウント制限という媒体別の手段も必要です。
「10分でカスハラ」と決めるのではなく、10分を責任者が状況を確認する合図にし、対応終了は言動と安全性から会社が判断します。
相談窓口は被害後の通報箱にしない
判断に迷う段階から相談できる受付と期限を作ります。
相談窓口は、重大事件になった後だけ使う場所ではありません。「カスハラか判断できない」「次回同じ人が来る」「自分の説明に誤りがあったかもしれない」という段階でも相談できると明示します。正規・非正規、派遣、委託、外国人スタッフ、夜間勤務者が利用できる言語と時間帯を用意します。
受付後の流れは、受領確認、緊急保護、事実確認、暫定措置、判断、本人への説明、再発防止まで期限と責任者を置きます。窓口担当者が店舗の売上責任者だけだと、顧客を失う不安から申告を抑える可能性があります。人事・法務・安全衛生、必要に応じ外部窓口へ上げる線を作ります。
指針は、相談したことや事実確認へ協力したことを理由に不利益な取扱いをしない旨と、相談者・行為者等のプライバシー保護を求めます。録音、映像、診断情報を広い共有フォルダへ置かず、利用目的、閲覧者、保存期間、削除を決めます。
相談者の記憶へ負担を集中させず、時刻、発言、対応、引継ぎを業務記録として残します。
録音・映像は集める前に使い道を決める
閲覧、保存、利用目的、削除まで証拠管理へ入れます。
電話録音や防犯カメラは事実確認を助けますが、導入すれば解決するわけではありません。録音中の案内、個人情報の取扱い、閲覧権限、保存期間、開示要求、委託先、持出し禁止を決めます。従業員の私物スマートフォンで顧客を撮影させる運用は、データが個人端末へ残り、別の紛争を生みます。
記録には解釈より原文を残します。「脅された」だけでなく、可能な範囲で実際の発言、距離、動作、何回繰り返したかを書きます。同席者や他の顧客への影響、担当者が休憩・交代を必要としたかも残します。映像のない対面事案でも、直後に複数人で時系列を確認すれば精度が上がります。
録音を評価や監視へ目的外利用すると、相談者が報告を避けます。事実確認と再発防止に必要な範囲を定め、誰が聞き、どの判断へ使ったかをログへ残します。生成AIへ通話を要約させる場合も、外部送信、学習利用、誤要約、原記録との照合、削除を生成AIセキュリティポリシーに沿って設計します。
被害者保護は配置転換だけではない
安全、評価、個人情報、再接触、回復を分けて支えます。
事案直後は顧客から離し、休憩、医療、家族への連絡、帰宅手段を確保します。翌日以降は同じ顧客との接触回避、勤務場所、電話番号・名札・シフト情報の保護、産業医や相談先への接続を検討します。被害を申告した従業員だけを不本意に異動させると、不利益取扱いと受け取られ、報告を止めます。
一方で、顧客の申出から商品・説明・運用の欠陥が分かったなら、是正と従業員保護を同時に行います。会社側の誤りを謝罪することと、暴言を容認することは別です。返金・修理等の正当な解決を進めつつ、従業員への人格否定や長時間拘束は止めます。
就業環境への影響は、欠勤や診断書だけではありません。恐怖で接客できない、同じ電話番号の着信で動悸がする、周囲も業務を中断する、離職を考える状態を早く拾います。産業医や相談先につなぐ際は本人の希望と医学的助言を踏まえ、欠勤・離職等の集計は人的資本KPIの設計へ接続しても相談者を特定できる形で共有しません。
「担当から外したから保護完了」ではありません。本人の安全、収入・評価への影響、個人情報、再接触、心理的回復を分けて追います。
顧客対応の終了は段階と権限を決める
警告から取引停止、警察相談まで判断者を明確にします。
同じ説明をした回数、回答期限、連絡手段を文書にし、以後の窓口を一本化します。警告、対応者の限定、電話の終了、入店制限、取引停止、警察・弁護士への相談は、行為の深刻さと契約・公共性を踏まえて段階化します。医療、交通、行政など、サービス停止が生命・生活へ直結する業務では、代替経路と法的義務の確認が欠かせません。
悪質な場合でも、担当者個人の判断で永久出入り禁止にせず、権限者と根拠、期間、対象店舗、解除条件を記録します。取引先の従業員による言動なら、相手企業へ協力を求める窓口を決めます。自社従業員が取引先の労働者へ行うカスハラを防ぐ教育も対策の一部です。
警察相談は「暴力を受けてから」だけではありません。地域の警察、施設警備、ビル管理会社と、緊急・非緊急の連絡先を整理します。差し迫った危険がある場合は証拠整理より退避と通報を優先します。
研修は謝罪文の暗記ではなく交代を練習する
合図、引継ぎ、退避、記録を現場配置で実演します。
研修では、会社の定義を読むだけでなく、業態で起きる場面を使います。小売なら返品期限を超えた要求、宿泊なら部屋変更と無償アップグレード、コールセンターなら長時間の人格否定、営業なら取引を条件に私的要求をされる場面です。正当な申出、境界事例、即時退避の三種類を混ぜます。
現場担当、責任者、記録、警備の役割を入れ替え、合図から退避まで実際に動きます。
練習する言葉は、要求の確認、できることの提示、できないことと理由、責任者への交代、警告、対応終了です。台本を一字一句守らせるのではなく、どの段階で一人の対応を終えるかを体で覚えます。新人にだけ受講させず、最終判断をする管理者と、夜間・単独勤務者も参加します。
研修の評価は受講率だけでなく、模擬場面での交代時間、記録の欠落、連絡先の到達、相談しやすさで行います。マニュアル改定後、現場が古い紙を使っていないかも点検します。セキュリティ教育の効果測定と同様に、知識問題だけでなく行動を測ります。
小規模事業者は外部窓口と共同対応を組む
一人の管理者へ相談と最終判断を集中させません。
店舗に管理職が一人しかいない会社でも、措置が不要になるわけではありません。商店街・施設管理、顧問社労士、弁護士、産業保健、警備会社、警察相談を組み合わせ、夜間に誰へ電話するかを一枚にします。相談受付と最終判断を同じ人へ集中させず、経営者不在時の代理権限を決めます。
業界共通の事例やマニュアルは、厚生労働省が公開する業種別資料を使えます。ただし自店のレジ配置、個室、非常口、単独勤務、予約情報、顧客層へ置き換えます。テンプレートに会社名を入れただけでは、従業員が自分の売場でどう退避するか分かりません。
相談件数がゼロでも、問題ゼロとは限りません。窓口認知率、責任者交代件数、長時間対応、同一人物の再発、欠勤、離職、顧客側の正当な苦情解決まで見ます。件数を減らす目標は隠蔽を促すため、報告の早さと深刻化防止を評価します。
施行日までの完成条件は規程の公開ではなく、全シフトで相談先につながり、責任者が交代し、事実を残し、被害者を守れることです。
10月1日から逆算した90日実装
方針、手順、全シフト訓練を30日ずつ進めます。
最初の30日で、経営者方針、三要件、禁止される言動例、正当苦情の扱い、相談窓口、プライバシー・不利益取扱い禁止を決めます。過去一年の長時間対応、暴言、SNS、出入り禁止、警察相談を匿名化して棚卸しし、頻出場面を選びます。
次の30日で、通常対応、責任者交代、警告、終了、緊急退避の手順を媒体・拠点別に作ります。録音・映像・相談記録の管理、被害者支援、相手方への通知、取引先との協力も決めます。委託先や派遣元・派遣先と責任範囲をすり合わせます。
最後の30日で全シフトの訓練と接続試験を行います。営業時間外に窓口へ連絡できるか、責任者不在時に誰が決めるか、110番時に住所と入口を説明できるか、記録を権限者だけが開けるかを実演します。訓練で止まった箇所を直し、施行後も四半期ごとに事例を見直します。
正当な苦情へ応えながら許容範囲を超える言動を止める境界線は、会社が何分後に、どの責任者へ判断を引き上げるかまで決めてあることです。
経営者は対応拒否件数だけを成果にしない
早期報告、被害防止、正当苦情の解決を同時に見ます。
対策導入後に見るのは、カスハラ認定数や出入り禁止件数だけではありません。相談から責任者応答までの時間、一人対応が続いた時間、欠勤・離職、再発、録音等の閲覧範囲、正当苦情の解決日数を組み合わせます。認定ゼロでも、従業員が諦めて報告していなければ失敗です。
経営会議では、個人を責める事例発表ではなく、配置、権限、商品説明、返金規程、設備、取引条件のどこが長時間対応を生んだかを見ます。顧客への説明改善で防げる摩擦と、説明を変えても止まらない許容範囲外の言動を分けます。
良いカスハラ対策は認定件数を増減させる競争ではありません。報告が早まり、長時間対応と被害が減り、正当な申出は早く解決する状態です。
参考情報
法律、指針、企業・業種別マニュアルの公式資料です。
以下は2026年9月5日に確認した一次情報です。
よくある質問
気になる質問を開くと、本文の重要点を短く確認できます。
Qカスタマーハラスメント対策はいつから義務ですか?
A事業主が講ずべき措置は2026年10月1日に施行されます。方針の明確化、相談体制、事実確認、被害者への配慮、再発防止、プライバシー保護等を実際に機能させます。
Q顧客が大声を出したらすべてカスハラですか?
A声量だけで自動判定しません。顧客等の言動か、要求内容に照らして手段・態様が社会通念上の許容範囲を超えるか、就業環境が害されるかを事実から見ます。
Q正当な苦情の中で暴言があった場合はどうしますか?
A商品の不具合等の解決と、暴言への境界設定を分けます。必要な返金・修理・説明は進めつつ、人格否定や長時間拘束を止め、責任者が対応を引き取ります。
Q電話は従業員の判断で切ってよいですか?
A会社が条件と権限を事前に定めます。同じ説明の反復、侮辱、脅迫等について責任者交代、警告、終話の段階を作り、緊急時以外は記録と引継ぎを行います。
Q録音がないと会社は対応できませんか?
A録音がなくても、直後の時系列記録、同席者、受注・通話・入退館記録などから確認できます。録音を導入する場合は案内、目的、閲覧権限、保存・削除を決めます。
Q小さな店舗でも相談窓口が必要ですか?
A規模に応じた体制を整えます。経営者や責任者に加え、社労士、弁護士、施設管理、警備、警察相談等の外部経路を組み、全シフトから到達できるようにします。
Q顧客を出入り禁止にすれば対策は終わりますか?
A終わりません。事実確認、権限者の判断、期間・範囲・通知、正当なサービスへの代替、従業員保護、記録、同種事案の再発防止を組み合わせます。